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【講義】平安時代を攻略する重要ポイント

平安時代は約400年という長い期間です。平成年間の約13倍…(イメージがつかない…)

平安時代とひとくくりに言われても、この時代に一貫して共通することがらは、ほとんどなにもありません。

 

平安京に都があること」と言いたいところですが、平氏政権のもとで福原京に遷都されていますし。

 

ですから、この400年をざっくりと区切って、分けて考えていくべきです。すなわち、

桓武朝〜嵯峨朝(天皇親政)

藤原北家の台頭(前期摂関政治

藤原北家の全盛(後期摂関政治

後三条天皇平氏政権(院政期)

の4つの時代ですね。

 

それでは、順番に各時期について見てみましょう。

 

桓武朝〜嵯峨朝(天皇親政)

この時期にはすでに律令体制が崩壊しつつあったため、実情に即した律令体制の整備・充実が進みました。すなわち、

・農民の負担軽減(班田を12年1班に、公出挙の利息を3割に、雑徭60日を30日に)

令外官の設置(征夷大将軍勘解由使蔵人頭検非違使など)

・格式の編纂

などです。桓武天皇平安京に遷都し、蝦夷を平定しながら目指した新たな政治が、嵯峨天皇によって着実に整備され、天皇を中心とする官僚社会の秩序が再編成されたということですね。

 

藤原北家の時代(摂関政治

さて、嵯峨朝では、薬子の変の後から、藤原式家に代わって藤原北家が台頭し始めます。藤原冬嗣蔵人頭に任命されると、その子良房は、清和天皇のもとで、皇族以外で初めての摂政となります。その背景となったのが、

外戚政策

他氏排斥

承和の変応天門の変阿衡の紛議菅原道真の左遷安和の変

です。自分は天皇に娘を嫁がせて天皇の外祖父となり(外戚政策)、ちゃっかり他の氏族にいちゃもんつけて蹴落としていくということですね。安和の変の頃までは、藤原氏にもライバルがいましたので、政治的な争いの中で、権力を強めていったのです。

 

なお、この頃から、土地制度も大きく変わってきます。簡単に言えば、「自分の土地は自分で守る」時代がやってくるのです。(のちほど土地制度の記事を書きます)

守り方の代表例としては、

・偉い人(中央の貴族・皇族)に土地の権利をわたす(寄進池系荘園

武装して、武力によって土地を守る(武士の発生

というパターンがあります。「実力」で生きる社会がはじまっていくのです。

 

藤原北家の全盛(後期摂関政治

安和の変源高明が排斥されると、これ以降、摂政・関白が常に置かれ藤原北家によってこの地位が受け継がれていくことになります。これで政治的な争いはおさまるかといえば、そんなことはありません。今度は、「藤原北家のトップ」をめぐる争いが、北家内部で起こるのです(氏長者争い)。これに(運も味方して)勝ち抜いたのが、藤原道長です。道長・頼通父子の時代は摂関政治の全盛期と言えるでしょう。

また、武士は、源氏・平氏という主に二つの大きな武士団が台頭してきており、源氏が、東国に進出し、大きな勢力となっていました(平忠常の乱源頼信が鎮圧したことで、源氏が東国に進出します)。

 

後三条天皇平氏政権(院政期)

さて、後三条天皇が即位すると、天皇親政が開始され、摂関政治が衰退することになります。藤原頼通は、例にならって娘を天皇に嫁がせていましたが、その間に子どもが生まれず、ついには、藤原摂関家外戚としない、後三条天皇が即位したのです。後三条天皇は、大江匡房を登用し、延久の荘園整理令を出すなど、長い間藤原北家を中心に行われてきた政治とは一線を画した政治を実施します。また、その子白河天皇は、天皇の位を自らの手で子の堀河天皇に譲ると、院政を開始しました。

白河・鳥羽・後白河院政期では、平氏(正盛・忠盛・清盛)が力を持ち始め、平清盛の時代には平氏政権は全盛期を迎えています平氏は、多くの知行国や荘園を持ち、実質的に日本の大部分を支配していたと言えるでしょう。

 

以上、平安時代を4つに分けて、概観してみました。平安時代の約400年間も、4つに分けて覚えておくと、知識を整理しやすくできると思います。

天皇親政 律令制に基づく土地支配

摂関政治 寄進池系荘園の登場 

摂関政治 寄進池系荘園の発達

院政   知行国制・荘園公領制