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【講義】平安初期の政治(桓武朝〜嵯峨朝)の攻略①

平安時代初期(桓武朝~嵯峨朝)の政治の重要ポイントは、

 

律令体制を維持するための政治改革

 ・仏教勢力排除

 ・公民負担の軽減

法典と官職の整備

 ・令外官

 ・格式・法解釈の編纂

蝦夷の平定

です。

 

桓武天皇は、その経歴をみると、少し特異であることがわかります。

・母親が渡来系(百済)氏族出身の高野新笠である

・大学頭や侍従、中務卿に任じられたことがある

という点です。すなわち、母方があまりいい家柄ではないため、皇太子→天皇というコースではなく、官僚としての人生を歩んでいく予定だったようです。桓武天皇が大規模な親政、政治改革を断行できた背景には、官僚としての経験や知識が豊富であったということがあるかもしれませんね。

 

 

さて、①の内容ですが、桓武天皇は、天皇権威の強化と律令体制の維持を目指していました。天皇を中心とした政治を行いたい桓武天皇ですが、平城京ではなかなかそれが実施できません。なぜならば、仏教勢力の力が強かったからです。

理由は、

・朝廷が鎮護国家思想(=仏教の力で国を安定させよう)にもとづいて、仏教を重んじた

・墾田永年私財法によって、大寺院が多くの荘園を持つようになり、経済的に強くなった

などが考えられます。

政治的な影響力に加え、大きな経済基盤を持っている寺院は、大きな勢力となっていました。

 

そこで、桓武天皇は、長岡京遷都を決断します。

この遷都では、寺院の建築・移転を、東寺と西寺以外一切認めませんでした。また、長岡京は、淀川を利用して渡来人の協力を得られる可能性があったのです。

しかし、大きな改革には抵抗勢力がつきものです。遷都反対派と考えられる何者かに造長岡宮使藤原種継が暗殺される事件が起きてしまいます。そこで、794年平安京への遷都が行われることになりました。

 

また、8世紀後半には、戸籍・計帳の制度がゆきづまり、浮浪・逃亡が増加していました。浮浪・逃亡する人々が増えるということは、調・庸の質が低下したり、中央への納入が遅れたりすることにつながります。朝廷は、彼らを本貫地(戸籍の登録地)に戻そうと考えますが、うまくいきません。それもそのはず、墾田永年私財法が施行されて以降、大寺社や地方豪族、有力農民らが、浮浪者や逃亡者を労働力として利用していたからです。(国政の矛盾が招いた結果ですね。)なお、偽籍(戸籍を偽る行為)も増加してきました。

 

したがって、桓武天皇は以下のような施策を実施します。

・班田を12年1班にする(←6年1班)

公出挙の利息を3割にする(←5割)

雑徭の期間を30日にする(←60日)

 

律令体制が当時の日本の実態に即していなかったという歪みが律令体制の崩壊を招いたわけですが、それを持続可能な形に修正していったというのが桓武朝だったのです。このような政治改革を進めていくためには、中央集権的な政治基盤が必要だったということになります。桓武天皇が中国の皇帝を真似た祭祀を行ったのもそうした背景があったのでしょう。