【講義】平安初期の政治(桓武朝〜嵯峨朝)の攻略②
さて、②の内容に移りましょう。法典と官職の整備です。
これも、律令体制を持続可能な形に修正し、さらには、それを整備・充実していったという性格のものになります。
まずは、格式の編纂です。養老律令ののちは、新たに律令が編纂されることはありませんでしたが、詔勅や太政官符、個々の法令は出されていました。律令を修正したり補足したりしたものも含めて、これらをまとめたものを「格」といいます。また、律令の施行細則を「式」といいます。
・弘仁格式(嵯峨)
・貞観格式(清和)
・延喜格式(醍醐)
を合わせて三代格式といいます。
※このうち、『延喜式』のみ現存しているとともに、重要な法令に関しては、『類聚三代格』としてまとめられています。
現存している
格 →『類聚三代格』
式 →『延喜式』
また、宮廷の儀式も整備されるとともに、唐風化が進みました。日本の伝統的な風習に中国起源の儀式等が加えられて年中行事が成立し、嵯峨朝では、日本最初の勅撰儀式書である『内裏式』が編纂されました。
次に、令外官についてです。律令が成立してから社会が変化していく中で、新たに必要となる職が設置されることになりました。律令成立時に意図していない現実の状況に対して、柔軟に対応するために設置されたものであるため、律令に規定されていないことから、「令外官」と呼ばれています。
勘解由使とは、解由状(国司交代時に新任の国司から前任の国司にあたえられる文書)を厳しく審査する官職です。桓武天皇が中央集権的な体制の構築に努めたことはすでに述べましたが、地方の行政に対しても天皇の権威を示そうと考えていました。地方行政に厳しいチェックの目を光らせ、地方行政の改善を図ったのです。
・蔵人頭(嵯峨朝)
これは、天皇の秘書官長として、機密の文書を扱う官職です。当時は、平城太上天皇が藤原薬子やその兄である仲成らとともに平城京にて自らの重祚を企図していました。いわゆる二所朝廷の状態です。そのような状況下で、嵯峨天皇は、自らの命令が平城天皇側にもれないようにという目的で設置されました。
※健児制(桓武朝)
東北や九州以外に軍事的な緊張がなくなると、792年にそれらの地域以外では、軍団を廃止し、郡司の子弟に地方の守備を行わせました。これを健児といいます。
・検非違使(嵯峨朝)
軍団や兵士が廃止されたことで京内の治安が悪化したため設置されたのが検非違使です。警察・治安維持の活動を行うために設置されましたが、のちに訴訟も扱うようになりました。
最後に③についてです。
光仁朝の780年、一度帰服した蝦夷である伊治呰麻呂が反乱を起こして多賀城を焼いたため、桓武朝では、蝦夷に対して強硬な姿勢をとりました。
桓武天皇は、紀古佐美を征東大使として派遣しますが、蝦夷の族長阿弖流為に敗れてしまいます。そこで今度は坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣すると、802年に阿弖流為は降伏しました。さらに、同年北上川中流域に胆沢城を築いて鎮守府を移すと、その翌年にはさらに北方の地に志波城を築いて、版図を広げました。
蝦夷平定事業は、805年の徳政相論によって、造都(造作)とともに停止されることになりますが、嵯峨朝の811年、文室綿麻呂が征夷大将軍に任命されると、徳丹城を築いて蝦夷の平定が完全に終了することになりました。
さて、この時期の蝦夷平定事業は、どのような意味を持つのでしょうか?
当時日本が目指した律令国家は、中国を模倣したものです。したがって、支配域において公地公民制を実施するとともに、周辺の地域を服属させるという構造を持っていたのです。ですから、東国・北方の人々を「蝦夷」と呼び、彼らを服属させ、朝貢儀礼を行わせたのです。日本が中央集権的な律令国家を目指すためには、蝦夷平定は必要不可欠な事業だったのです。
しかし、蝦夷平定は、徳政相論で停止となったように、農民に大きな負担を強いるものであり、長期間継続できる事業ではありませんでした。国土を拡張し、それを維持していくことが困難になったということはつまり、蝦夷平定によって律令国家の変質(=律令体制・公地公民制を崩壊させる)を招いてしまったということになります。
蝦夷平定事業そのものは、律令国家にとって必要不可欠な事業であったのですが、国力がそれに耐えうるだけのものではなかったために、逆に、律令国家の変質を招いてしまうという結果になってしまったのです。
まとめ
桓武朝から嵯峨朝の頃というのは、
・現状に即した、持続可能な法制度の整備
・唐風化と官僚化に基づく新しい貴族社会の構築
・蝦夷平定事業による帝国構造の顕示
とまとめることができます。
中央にとっても地方にとっても社会構造の大きな変化をもたらした時代であるため、しっかりとした理解が必要になります。