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【講義】古代土地制度シリーズ② 8世紀の初期荘園

今回は、古代土地制度シリーズの第2段、初期荘園について扱ってみたいと思います。

 

実際、古代史を勉強していると、「荘園ってなんなんだ?」という疑問はほぼ100%でてくると思うんですよね。そして、土地制度、特に荘園の厄介なところは、中途半端に勉強すると、さらに訳がわからなくなっていくというところ。

「荘園」というのは古代史を理解する上で最も重要なテーマの一つであり、中世における社会の基盤をなすものですから、「荘園」の理解というのは、古代史・中世史を勉強する上で、逃げられない存在なわけですね。

実際、私も授業では土地制度史に関する説明は、かなりの時間を使います。ここを理解しないと、古代〜中世史を深く理解することが不可能になってしまうからです。

難しい内容なのは承知の上で、ここから逃げずに、しっかりと勉強する覚悟を決めることが大切です。頑張ってください!

 

気を取り直して、今回は「初期荘園」の説明です。

 

 

①区分田の不足と墾田永年私財法 

まずは、背景から。

律令制度が完成すると、早速、区分田が不足している状況が生まれてしまいます。

朝廷は、班田するための区分田が不足している状況を受け、722年に百万町歩開墾計画を立て、723年には三世一身法を施行しました。これらの動きから、耕地面積を拡大させ、財源を確保するという朝廷の意図を理解しましょう。

 

さらに朝廷は、743年墾田永年私財法を発布しました。この法では、位階に応じて所有できる墾田の面積が定められており国司に申請して開墾の許可を得たのち、一定の期間内に開墾すれば、その土地の永久私有が可能になったのです。

 

墾田永年私財法には、以下のような性格があります。

班田収授という律令制の原則を朝廷が変更した。すなわち、墾田は輸租田(=租を納めなければならない田)であるが、班田収授の対象にはならなかった。

墾田に関する規定が明確になった。班田収授法は熟田(=すでに耕作が可能な田地、もともとあった田)のみを対象としており、墾田(=新たに開墾される田地)についての規定がなかったため、その制度的欠陥を補った。

 

墾田に関しては、永久私有が可能であるという点から、中央の貴族や大寺社は、積極的に開墾を行いました。一方、墾田は輸租田であるため、朝廷や国司としても、財源確保のために、開墾を奨励しました。

中央の貴族や大寺社→「自分の私有地を増やしたい!」

朝廷・国司→「財源確保!墾田の掌握!」

 

 

②初期荘園について 

中央の貴族や大寺社が開墾・買収して成立した荘園を初期荘園(墾田地系荘園)といいます。初期荘園の特徴を整理しておきます。

輸租田(=課税の対象)

荘園領主直接経営する

・開墾のために周辺の有力農民や浮浪人を使用

 →賃租する

・労働力の確保のために、国司・郡司が協力する

 

このような特徴があります。特に、3つ目と4つ目の特徴により、初期荘園を説明する際、「律令制支配機構に依存した荘園だ」というフレーズを使われます。実際、論述の問題でもこういうのは「お決まりのフレーズ」として覚えてしまうというのも一つの手なんですが、もう少し詳しく説明しておきましょう。

 

 

律令制支配機構に依存した荘園とは?

本来、先ほども述べたように、班田収授法には、熟田(=すでに耕作が可能な田地)についての規定しかありませんでした。

 

しかし、墾田永年私財法が施行された前年の742年(この年は6年に1度の班田の年)に班田図が全国的な規模で作成されたのですが、この時に、「あれ?開墾地(墾田)の扱いってどうすればいいの?」となってしまったのです。このような背景から、墾田の扱いを明確に規定しておくとともに、墾田を国家としてきちんと掌握しておこうという目的で、墾田永年私財法が制定されたのです。

 

貴族や大寺社が新たに開墾する際は、国司の許可が必要でしたし、一方の国司も財源の確保とともに、墾田の掌握という目的がありますから、国司が強く関わっていたのです。また、中央の役人や国司・郡司に労働力の手配をしてもらうことも当たり前でした。

 

こうして初期荘園が成立していくわけですから、「律令制支配機構に依存した荘園」であるということの意味が理解できると思います。