【講義】鎌倉幕府の支配のあり方①(前期)
鎌倉幕府の支配体制を勉強していくと、単純なようで難しい、難しいようで単純明快といった、なかなか不思議な感覚に陥っていきます。今回と次回で、鎌倉幕府の支配システムをポイントを絞って解説したいと思います。
鎌倉幕府の根幹
基本的な事項を復習しておきましょう。
・将軍と御家人は御恩と奉公の関係で主従関係が結ばれている。
・将軍(鎌倉殿)→「日本国惣追捕使・惣地頭」であり、朝廷から、軍事警察権を委任されている。
おそらく日本史を学ぶほとんどの人々が、鎌倉幕府の主従関係について、上記のように学ぶと思われます。
鎌倉幕府の最も根本的なシステムは、
土地を媒介とする、将軍(鎌倉殿)と御家人の私的な主従関係
です。
源頼朝は、この私的な主従関係に、いかにして正当性としての公的な性格を与えるかということを考えていたと思われます。
鎌倉幕府はどのようにして「公的な役割」を確保していったのか?
1183年 寿永二年十月宣旨
源義仲軍は、養和の大飢饉で兵糧が不足していたこともあって、入京後に狼藉や略奪をはたらいたため、京都が混乱状態となった。後白河法皇が頼れるのは、源頼朝しかいなかったため、義仲の追討の見返りとして、この宣旨を出したと考えられる。
1185年 文治の勅許
平家滅亡後に、平家没官領の支配権が認められたが、後白河法皇は、源義経・源行家らに頼朝追討の院宣を出したことにより、頼朝はこれに対して抗議。議奏公卿による朝政を認めさせ、守護地頭の設置の設置、段別5升の兵粮米の徴収、諸国国衙の在庁官人に対する命令権を獲得。
この頃設置された守護地頭は、段別5升の兵粮米の徴収・知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であり、「国ごとに置かれた守護、荘園・公領ごとに置かれた地頭」とは異なるものであったというのが有力な説としてあります。
しかし、当然のことながら、強大な権限を有する「国地頭」は、荘園領主や国司の土地支配権を脅かすものであるため、国司・貴族・寺社らによって、激しく抵抗されることになります。そこで、1186年には、地頭の設置を平家没官領や謀反人の所領等に限定したのです。
1221年 承久の乱
後鳥羽上皇が北条義時の討伐を掲げて挙兵した承久の乱では、幕府方が上皇方に勝利。これにより、幕府は約3000カ所の所領を獲得。幕府は新補地頭を設置し、その得分を新補率法として定めた。
承久の乱によって、幕府が地頭を設置できる範囲が大幅に拡大したことになります。承久の乱ののちに設置された地頭を新補地頭といい、1223年には新補地頭の得分を定めた新補率法を定めました。
新補率法の主な内容は次の2点です。
・段別5升の加徴米を徴収できる
→これまでの兵粮米徴収というのは、戦時の際の徴収という意味合いでしたが、加徴米というのは、「年貢に加えて徴収する」という意味があります。すなわち、地頭が正規の年貢に付加して徴収できるという性質のものであり、支配する土地のすべてから平時においても段別5升の米を徴収できるようになったわけです。
・田畑11町につき1町を免田とする
→11町の土地に地頭が設置されたとすると、その地頭は11町全ての地頭ではあるが、10町分は荘園領主(公領ならば国司)の分であり、そこについては荘園領主・国司の指示のもと、荘官としての仕事(年貢納入や治安維持など)を行い、残りの1町については年貢・公事を免除するということになります。
地頭の補任というのは、どういった意味を持つのか?
鎌倉幕府の経済的基盤は、荘園公領制や知行国制を基礎として成り立っていることに留意しておく必要があります。荘園公領制と知行国制については以下で復習してください。
三河 駿河 武蔵 伊豆 相模 上総 信濃 越後 伊予 豊後 下総 遠江 陸奥 備前 備中
②関東御領
源頼朝が本家・領家として所有していた荘園群や公領+平家没官領
→年貢や公事が地頭を通じて幕府に納められるため、幕府の財源になる
③関東進止所領
幕府が地頭職の補任権をもつ所領
→年貢や公事が荘園領主のもとに納められるため、幕府の財源にならない
※本所一円領
単一の荘園領主(本所)が、地頭などの武家側の影響を排除し、排他的な支配を可能とした荘園のこと(当然、幕府は地頭を置くことができない。)
鎌倉時代の経済的基盤は、荘園公領制に基づいて成立しているわけですね。関東御分国における公領や、関東御領、関東進止所領には地頭を設置できるわけですが、地頭とは、「職」の体系で成り立つ荘園や公領に対して、新たに加えられた一つの「職」であるということに留意する必要があります。幕府は、御家人を「職」のひとつとしての地頭に任命することにより、荘園公領制の土地支配体制の中で、一定の武家の関与を確立したといえるのです。
鎌倉殿は、御家人の奉公に対して、先祖伝来の土地の支配を保証したり、新たな所領を与えたりする際、地頭に補任する形でそれらを行っていたのは、それを私的な恩賞という意味合い以上に、公的な支配権の付与という意味合いを持たせるためであったと考えることができるわけですね。
ちなみに、当時の御家人は惣領が庶子を統率していた(=惣領制)ため、幕府が御家人を統率する際は、惣領を中心とする一門の団結を前提としていたことも押さえておきましょう。
まとめ
本来は、鎌倉殿と御家人との私的な主従関係が最も基本的な関係として存在します。
しかし、鎌倉殿が朝廷から軍事警察権を委任されていることから、これらの関係に「公的な性格」が付されることになるのです。すなわち、
・地頭の補任(御恩)→公的な役割を持つ一つの「職」としての地頭に補任する
・番役や軍役(奉公)→軍事警察権を朝廷から与えられている鎌倉殿のもとで、公権力を行使する
という意味合いが存在することになるのです。