受験と日本史を考える

歴史的思考力を高めよう! 日本史・受験・進路・教育・学校etc...

【講義】鎌倉幕府の支配のあり方②(後期)

鎌倉幕府の構造は、前期と後期では、様変わりしています。

 

歴史を勉強する際、どうしても人物や出来事に目が移り、本質を見失いがちになってしまうことが往々にしてあります。鎌倉幕府の構造なんかはまさにそうで、政治の流れを順に追っていくだけでは大事なところが見えてこないのです。

 

 

今回は、惣領制荘園公領制に焦点を当て、この2点から、鎌倉幕府の構造の変化について述べていきたいと思います。

 

 

①社会の変化

鎌倉時代の前期

・血縁的な結合に基づく惣領制を基盤とする一門の団結

荘園公領制の枠組みの中での地頭の土地支配

 

鎌倉殿が軍事動員を行う際は、惣領に対して命令を行います。すなわち、惣領と庶子という一門の団結をそもそも前提としていました。惣領は庶子を統率するために、分割相続によって一門の団結を維持していたと考えられます。

また、地頭は、荘園公領制に基づくひとつの「職」(=荘官)であり、基本的には、荘園・公領を実質的に支配するとともに、年貢納入を請け負うものでした(=地頭請)。一応以下のページで復習をしておいてください。

 

history16.hatenablog.com

 

 

しかし、鎌倉時代の後期になると、以下のように社会が変化していきます。

貨幣経済の発達により、御家人貨幣経済や金融システムに巻き込まれる

元寇による戦費の負担により、御家人の諸費用が逼迫した状態になる

・分割相続に伴う所領の細分化により、御家人が窮乏する

 

 

②国人の登場

これらの社会の動きの中で、御家人一門の団結が動揺するとともに、武士らの土地支配が強化される傾向が強まります。庶子らが惣領から独立し、自らの所領を一円的に支配しようと考えるようになったのです。そのために、荘園領主国司の支配を否定し、強力な土地支配を行ったのです。こうして、惣領制荘園公領制の枠組みを打破して在地領主となった武士を国人といいます

 

国人の登場はどのような意味があるでしょうか?

 

鎌倉幕府の最も基本的な構造は、鎌倉殿と御家人(=惣領)の主従関係であり、これは惣領と庶子の団結を前提としていたこと、御家人の奉公に対して地頭という公的な職を与える(=御恩)ことの2点を思い出してください。

そう、惣領制荘園公領制を否定する国人層の存在は、鎌倉幕府の根幹を揺るがすものであったわけです。

 

③幕府の変質と守護権力の強化

鎌倉時代後期には、幕府自体も変質しています。元寇を機に、異国防御を名目として、本所一円地(=朝廷や有力公家・寺社が直接支配する荘園)に居住している幕府と主従関係を結んでいない武士(=非御家人)を軍事指揮下に置きました。さらには、九州や山陰においては、本来荘園領主に納められるべき年貢を、幕府が兵粮米として徴収しました。すなわち、異国防御という建前のもと、鎌倉殿と御家人の主従関係を超えて、全国的支配を確立しつつあったといえます。

 

ちなみに、将軍や幕府が「公方」と呼ばれるようになったのもこの頃からですね。本来は、天皇や朝廷という意味で使用されていた言葉ですが、幕府が全国政権化していく中で、将軍や幕府を表す言葉として使用されていきます。ここには、得宗専制政治が強化されつつあったちょうどこの頃に、北条氏の「私」的な権力強化に対して、皇族将軍と御家人の関係を「公」と捉えて、皇族将軍を「公方」と呼んだという背景も考えられます。

 

話を戻します。

鎌倉幕府が前期とはその性質を大きく変え、全国政権化したことと並行して、先ほど述べた惣領制の崩壊という現象も進んでいったことから、御家人を地頭に補任して惣領を通じて一門を統率させる方法を採用することは困難になっていました。そこで、北条氏嫡流である得宗は、北条一門及び御内人を重用し、守護職の権限を強化しつつ、守護職の約半数を北条氏で独占したのです。得宗専制政治の意義に関して、得宗御内人への権力が集中したということに加えて、守護の権限が強化されることにつながったということもしっかりと押さえておかなければなりません。

 

やがて、鎌倉幕府の基本構造を維持するのが困難になった幕府は滅亡しましたが、守護の権限が強化されていく動きは室町時代へと繋がっていきます。また、それにより荘園公領制も実質的に崩壊していくことも理解しておきましょう。