受験と日本史を考える

歴史的思考力を高めよう! 日本史・受験・進路・教育・学校etc...

【講義】戦国大名とは何者なのか?①

今回は、戦国大名についてです。

戦国時代や戦国大名を好きな人は多いと思いますが、そもそも戦国大名とはどういう人々なのでしょうか?また、室町時代守護大名とは何が違うのでしょうか?

 

 

戦国大名の登場は、新たな時代を迎える契機ともいえます。

今回と次回の話をしっかり押さえると、中世と近世という二つの時代をしっかりと理解できるはずです。

 

今回は以下のテーマで話を進めていきたいと思います。

 

 

守護大名の特徴

戦国大名について理解するためには、まず室町時代における守護大名について理解しておく必要があります。

守護大名の支配体制のポイントは、

  • 幕府の権威の下で、国司や朝廷が持っていた公権力の行使が実現できたこと
  • 所領支配に関しては、農民を直接支配していた領主である国人の支配力に依拠していたこと(守護大名は、基本的に京都に在住していました)

の2点です。守護大名の地位は将軍から任命されるものであり、守護大名は、将軍の権威に基づいて分国支配(土地の支配、警察権の行使)を行うことができたのです。

守護大名や国人については、以下のページを復習として活用してください。

 

history16.hatenablog.com

history16.hatenablog.com

history16.hatenablog.com

 

 

 

将軍の権威低下を受けて

3代将軍足利義満の時代に最高点に達した将軍の権威は、その後徐々に低下していくこととなります。これには、嘉吉の変、応仁の乱明応の政変などの事件に加え、関東における動乱など様々な要因がありますが、守護大名の分国支配権が、室町幕府誕生以来強力になっていたことも背景として考えられます。守護大名は、将軍の権威の低下に伴い、将軍の権威のみに依拠できないため、自らの実力も必要になってくるのです。

 

室町幕府の権威が低下したことを受けて、以下のような動きが見られました。

  • 守護大名は自らの権力の拠所を失い、守護代や国人層などの実質的な地方支配者が、自らの領国の支配を強めた
  • 守護大名は幕府の権力に依拠せず、実力によって領国の支配をしようとしたことで、国人層が守護大名のもとに組み込まれた

この動きは、地域によって様々であることに留意が必要です。ただし、全国的に共通して言えることは、分国の支配を実力によって独自に行うことです。元々の出自が守護大名であっても、守護代であっても、国人であっても、分国の支配については、幕府の権威や法とは独立した形で実力により支配する動きが見られるのです。こうして登場した分国の支配者を戦国大名といいます。

 

 

戦国大名の登場と社会構造の変化

守護大名は、自らの領国において完全な支配権を確立していたとは言い難い部分があります。上述の通り、国人層は、守護に対する被官化が進んでいたとはいえ、一定程度は独立性が保たれていました。実際に農民を直接支配していたのは国人であったため、守護も領国経営において、国人の支配力に依拠せざるを得ない状況があったのです。

 

また、国人層の中には、将軍から直接本領安堵を受けたり、公家権門・寺社権門の荘園の荘官として任じられたりする場合もあり、中世の特徴とも言える重層的な土地支配構造の中において、上位の権力(権門)と関係をもつ例は多くありました。さらには、天皇家摂関家・有力寺社などの所領には守護不入の権が認められており、守護大名の領国内においても、守護大名が介入できない所領が含まれていたのです。

 

しかし、戦国大名の中には、「不入地の否定」を分国法に定めた者もおり、領国全体の最高支配権を確立しようとした意図が見受けられます。これを定めた今川氏は、もともと守護大名であったため、守護大名から戦国大名へとその性格を変化させた要因のひとつといえるでしょう。幕府の機能の低下は、地方の独自政権の誕生を生み出すとともに、中世的な土地支配の構造を徐々に変化させることにも繋がったのです。