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【講義】守護大名の登場と守護領国制②

守護領国制の特徴は以下の4つでした。

  • 国衙機能の吸収
  • 軍事警察権の強化
  • 土地支配権の強化
  • 国内武士との主従関係の確立 

 

前回の講義の内容はこちらです。

history16.hatenablog.com

 

 

 

前回の講義では、上記のうちの2点を解説したので、今回は、後半の2点について解説していきます。 

 

 

土地支配権の強化

南北朝時代では、

  • 北朝側(=幕府側)の尊氏派
  • 北朝側(=幕府側)の直義派
  • 南朝

の3つの勢力が争っており、ここに、単独相続による一族内の紛争、守護の支配強化に対する国人の対抗(=国人一揆)なども相まって、戦乱が長期化する様相をみせていました。

 

1350年から始まった観応の擾乱の最中、足利尊氏は、鎌倉の足利直義へ向けて軍勢を進める中で、1352年、その道のりにある近江・美濃・尾張の3カ国に対して年貢の半分が、1年限りで兵粮米として守護に預けられました。これを観応の半済令といいます。尊氏としては、近江・美濃・尾張の武士を味方にしようとしたのが当初の目的だったのですが、これを契機として、各国の守護が半済の適用を要求する事態になっていくのです。

すると、1368年になると無期限に全国の守護に半済を認めた応安の半済令が出されることになるのです。この応安の半済令では、天皇家領や殿下渡領(=摂関家領)、寺社一円地は対象外とされており、これら以外の所領での半済が認められました。

さらに、荘園領主国司と請負契約を結び、荘園領主国司に対して年貢を納入する(=守護請)一方で、荘園や国衙領の実質的な土地支配権を主張するようになりました。

 

余談ですが、応安の半済令が出された1368年というのは、どういった年だか分かりますか?

 

これは足利義満(当時10歳)が将軍に就任した年です。義満は幼少であったため、管領細川頼之が政権を主導していました。将軍が幼少であったこと、南北朝の動乱がつづいていたことが応安の半済令が出された背景でもあるのです。

どういうことか。つまり、先代義詮から幼少の義満に将軍の代が替わるということは、一時的に将軍と守護との主従関係が不安定になる危険性が生まれるということなんですね。さらには、当時、武家の争いに、南朝勢力を中心とする公家や寺社も関わっていました

そうです。応安の半済令では、天皇家領・殿下渡領・寺社一円地を保護する一方で、守護の半済を永久的・全国的に認めることになったわけですから、公家・寺社権門に対しても、守護に対しても既得権益を認めつつ各地の所領を明確に確定することになるのです。これにより、幕府は、あらゆる権門からの支持を集めつつ、義満の成長を待つ期間を確保できるようになったのです。

 

 

なお、土地支配権の強化に関して、守護段銭についても述べておかなければなりません。もともと、段銭・棟別銭は、幕府が全国一律に臨時で賦課する性格の税であったが、守護が独自に賦課するようになり、守護段銭へと変質していったのです。守護は徴税権も獲得したことになりますね。

 

 

 

国内武士との主従関係の確立

国内には、在地の有力者である国人が存在します。国人は、らの所領の名主らを直接かつ強力に支配していたため、守護は国人の支配力を通して、間接的に国内の農民を支配するしかありませんでした。中には、守護の支配に対して、それを拒む国人もおり、特に畿内では独立志向の強い国人が多く、守護は国人層と主従関係を結んでいく必要があったのです。

主従関係の基本は、主人の動員・指揮の下で奉公した従者に対して恩賞を与えることです。

つまり、国人層をはじめとする国内の武士を動員・指揮するためには、恩賞権が必要になるのです。守護は、戦の敗北や犯罪などにより没収された土地(=闕所)を恩賞として家臣に与える権限、すなわち闕所地給付権闕所地処分権を手に入れます。実質的な恩賞権を獲得した守護は、国人を被官化することにより、その領国支配を強固なものにしていったのです。

 

 

 

まとめ

守護は権力を増大させるとともに、朝廷や国司の持っていた「公的な権力」を吸収し、地方行政の主体として機能するようになりました。ただし、国内の国人層は、その所領の一円的支配を行い、農民を直接支配していたため、守護は公権力を行使しつつも、国人層の支配力に一定程度依拠しなければならなかった点には留意しておく必要があります。