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【講義】戦国大名とは何者なのか?②

前回に引き続き、戦国大名についての解説になります。

戦国大名とは、幕府の権威や法とは独立した形で実力により支配する大名のことでした。今回は、その支配の仕方についての説明になりますので、ここを理解すると、より守護大名との違いが明確化されるのではないかと思います。

 

前回の内容は、こちらです。

history16.hatenablog.com

 

 

 

戦国大名の分国支配について、以下の内容で話を進めていきたいと思います。

 

 

 

分国法の制定

分国法の特徴として、「喧嘩両成敗」を定めたことはよく知られていますが、これは非常に大きな意義があります。すなわち、すべての紛争解決を大名の裁定に委ね、紛争解決・裁判に関する権力を大名自らに集中させようとしたのです。

中世における紛争解決の基本的な態度は、「自力救済」(=当事者間解決)です。すなわち、紛争が起こったときに、自らの武力によって紛争を解決することが基本でした。それを規制し、分国内での紛争解決する権限を大名に集中させたことは、戦国大名が分国の平和・秩序を保つために不可欠だったと考えられます。

 

ちなみに、守護大名にも、紛争解決の裁定権がありました。すなわち、使節遵行権です。戦国大名は、この紛争解決の裁定権を独自の分国法に定め、より強力な権限を持とうとしたのです。

前回の記事でも述べましたが、守護不入地を否定した分国法もあり、分国内の統治においては、自らの権限を強化しつつ、上位の権力から一定程度独立性を持たせることで、秩序の維持を図ったと考えられます。

 

 

家臣団の組織化と農民の支配

戦国大名は、一門や譜代に加え、分国内の国人や地侍を従属させる方針をとりました。彼らは、元来農民を直接支配していたため、彼らは戦国大名に対して、領地の保護や紛争の解決を期待しました。もちろん、そのような能力のない大名に対しては離反することもありえます。したがって、領地の保護や紛争の解決といった統治能力・実力は、戦国大名が分国内を統治するためには不可欠でした。

 

戦国大名の中には、そういった国人や地侍家臣団として組織化しようとする者もいました。この動きは、国人がもつ農民の支配権を奪うことにもつながります。戦国大名家臣団(国人・地侍を含む)との主従関係を構築しつつ、農民の直接支配を並行して行ったのです。

 

すると、家臣団の持つ軍事力は、家臣が独自でもつ固有の軍事力ではなく、あくまで戦国大名から預かったものとして位置付けられることになります。家臣団はその軍事力を用いて戦闘に従事し、活躍に応じて土地の権利や収益などが知行として与えられます。

その際に用いられるのが貫高制です。貫高とは、年貢などの収益を銭に換算した値です。主には国人や地侍、征服地の村などから自己申告(指出)させ、分国内の土地(の収益)を貫高で表し、知行宛行や年貢納入の統一的な基準としたのです。

 

武士の中の主従関係には鎌倉時代から続く「御恩と奉公」の関係があります。戦国時代においては、家臣団が大名の命を受けて先頭に従事することが奉公であり、活躍に応じた知行が御恩であったのです。その御恩と奉公における、分国内での統一基準が貫高でした。

 

なお、このような指出検地は、分国内の土地と農民の支配権が戦国大名にあることを示すという意味があることも押さえておくとよいでしょう。戦国大名は、分国内の農民に対して、年貢の徴収を行うとともに、一揆・逃散を禁止する一方で、治水・灌漑事業に取り組みつつ、産業の掌握・発展に努めました。特に、商業の発展に努めた例でいえば、楽市令などが挙げられます。

 

 

まとめ

中央の統一政権としての幕府の機能、将軍の権威が低下したことを受けて、地方の守護大名や国人、地侍は、実力による分国経営を目指しました。その動きの中、地域社会の最高支配者としての地位を確立した戦国大名は、分国法によって紛争解決の権限を自らに集中させて秩序の維持を図りつつ支配の正当性を高めました。また、家臣団の統制や土地、農民、産業の支配を強化し、自らの手によって分国支配を確立し、独自の地方政権を確立するに至ったのです。