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【講義】豊臣政権の性格とは?①

豊臣秀吉=天下人というイメージは多くの人が持っていると思います。

天下人って、一体どういうふうに捉えればいいのでしょうか?

 

 

 

豊臣秀吉は、もともと織田信長の一家臣であったわけですが、本能寺の変の後は、一戦国大名として、他の大名と戦闘を繰り広げ、全国の統一を果たすことになります。

 

戦国大名は、自らの分国を独自の法と権力に基づいて支配を行うわけですから、豊臣秀吉政権というのは、その私的な権力に正当性を持たせて公権力化し、それを全国規模に拡大したものであるというふうに考えられます。

 

戦国大名については、以下の記事を復習に活用してください。

 

history16.hatenablog.com

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今回と次回で、豊臣政権について以下のポイントで説明をしていきたいと思います。

 

 

太閤検地について

太閤検地豊臣秀吉の土地調査事業の総称です。1582年に領地内の土地調査を開始し、1598年まで獲得した領地内の検地を行っています。また、1591年には、諸大名に検地帳国絵図の提出を命じました。

 

まず、1582年以降の土地調査についてです。秀吉は、役人を派遣し、自らの領内及び、新たに獲得した領土に役人を派遣して、検地を実施していきました。その際、統一した長さや面積の単位を用い、枡も京枡に統一し、1段あたりの米の標準生産量を石盛で表しました。検地は村ごとに実施され、検地帳が作成されました。田畑の等級・面積・石高・作人名が記載されました。

 

地帳に登録された耕作人は、年貢負担の責任者となり、一地一作人の原則が確立したとみることができます。農民は年貢納入の義務を負う一方で、土地所有の権利を獲得したことになります。ただし、実態として、年貢負担の責任者が必ずしも土地所有者であったわけではないことに留意が必要です。

 

あくまでも、土地所有者=年貢納入者となるのは、17世紀中頃の話であり、太閤検地も、個々の作人とその所有する土地を把握することを主な目的としていませんでした。しかし、村の境界や村高(村の石高)を定めたことで、村が末端の行政単位として機能する準備ができたことに大きな意義があると言えます