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【講義】豊臣政権の性格とは?②

豊臣秀吉政権というのは、その私的な権力に正当性を持たせて公権力化し、それを全国規模に拡大したものでしたね。

 

 

前回と今回で、豊臣政権について以下のポイントを説明しています。

 

前回は、太閤検地についての説明をしました。 

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今回は以下の項目を解説します。

 

 

 

 

太閤検地と大名

中世の武士は、御恩と奉公という私的な主従関係によって成り立っていました。これは、鎌倉幕府においても、室町幕府においても、戦国大名においても基本的な主従関係として存在していました。

太閤検地では、この主従関係にどのような影響をもたらしたのでしょうか。ポイントは2点です。

  • 国絵図検地帳を各大名に提出させることにより、豊臣秀吉が、全国の土地支配者であることを明確に示す。
  • 石高という全国的な統一した基準が設定されたことにより、領地替えが容易になった。

 

結論としては、この2点によって、秀吉の優越的地位が確立されたことになります。

国絵図検地帳の提出させたことは、豊臣秀吉が全国の土地支配者であることを明確に示す意味合いを持ちます。また、大名の石高が確定されることにより、それに見合った領地を秀吉が保障するわけですから、大名は、その石高に見合った軍役をすることになります。すなわち、武士にとっての基本的な主従関係である御恩と奉公を石高を媒介として確立させたのです。

 

また、石高は全国的に統一された数値による基準であるため、大名の領地替え、加増、減封、改易を容易にするという結果をもたらしました。秀吉が全国の諸大名に対して、主君という地位を確立する一方、諸大名がもつ独自性や、領地・領内の農民との関係性を弱めることを可能にしたのです。

 

戦国大名が、分国の支配を行う際に、国人層と農民の関係を切り離し、国人を国衆として家臣団に組み込んだように、豊臣秀吉太閤検地によって、諸大名とその領地を切り離し、秀吉との主従関係に組み込もうとしたのです。

 

刀狩

刀狩の目的といえば、「一揆の防止」と覚えている人は多いのではないかと思います。

「刀」は武士の象徴であるとともに、自衛の道具です。刀を農民から取り上げるということは、農民から武士へ(被支配層から支配層へ)の転化を禁止し、身分の固定化を図ったものであると考えることができます。また、刀を奪うことで、農民の自力救済・私闘を禁じたわけですから、秀吉は、全国の農民を保護する義務を負い、争いの裁定権を得なければならない状況をつくったというふうに考えることができます。

これは、

と同じように、刀狩は、自力救済・私闘を禁止する性格のものであったということは重要であり、単に一揆の防止を目的とするだけのものではない点に留意しておきましょう。

 

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惣無事令

秀吉は、1587年の九州攻略に際しても、1590年の小田原攻略に際しても、停戦命令(惣無事令)に従わないことを理由として出兵しています。つまり、私闘を禁じ、秀吉の裁定に従えと命令したにもかかわらず、これに従わないため、武力で制圧するという論理なわけです。このとき、島津氏や北条氏の軍事行動は「私闘」と扱われ、秀吉は自らの裁定権を「公権力」として行使しようとした意図がみられます

秀吉は、全国の支配者としての地位を確立しようとし、その私的な支配を公権力化するために、このような手法をとったと考えられます。

 

 

 

刀狩や惣無事令というのは、一切の私闘・自力救済を禁止し、その裁定権を秀吉が一手に請け負うことを目的としており、秀吉が全国の支配者としての地位を確立し、その私的な支配を公権力化するためのものであったのです。