【講義】古代の中央政治を捉える①
今回は、古代の政治を大きな視点で捉えよう!というテーマです。古代の政治史は、三つの時代に分けて考えると整理しやすいでしょう。
古代の政治史を大きな視点で捉えて考察する際は、
①有力氏族の合議体制(ヤマト政権成立~8世紀初頭)
↓
②律令体制に基づく官僚政治(8世紀)
↓
③宮廷貴族社会(9世紀~摂関政治期)
という大まかな流れを理解することが大切です。
有力氏族の合議体制から律令体制へ
ヤマト政権が誕生した当時は、有力な豪族らによるの連合政権的な性格を持っていたと考えられています。その中で、大王の権力が強大化し、中央の有力豪族や地方の有力豪族らが大王に奉仕するという支配体制が確立しました。6世紀ごろには、氏姓制度が確立し、血縁的な結びつきにもとづいた「氏」を単位として、「氏」ごとにそれぞれ職能(=「姓」)が分担されました。
とにかく、氏族ごとに天皇に仕えたというところがヤマト政権の基本的な性格になりますね。
推古朝以降、701年の大宝律令制定まで、律令国家建設に向けた、官僚的な政治体制の構築が進められていくことになります。
官僚制原理と氏族制原理の混在
「官僚的」とはなにか。官僚制の特徴を挙げてみましょう。(こういう話って実際に授業では扱いにくいのですが、日本古代史を理解するためには絶対に必要不可欠な議論だと思うんですね。)
・職務の内容などが、階層化・分業化されている
・上意下達の命令指揮系統をもつ
・ヒエラルキーが存在する
・資格や能力を重視した採用(血縁や家柄などに左右されない)
・文書を中心とした事務手続きが中心
このようなことが挙げられると思います。
すなわち、「血縁や家柄に関係なく、能力や資格によって、官僚のヒエラルキーに組み込まれるしくみ」と考えてよいでしょう。律令体制完成後は、位階という官僚のランクが存在し、位階ごとに割り当てられた官職に就任するシステム(官位相当制)によって、官僚的な政治体制が完成しました。
ただし、その一方で、若干氏族制原理が残っていた面もあります。
・公卿会議(太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議らによる会議=太政官の最高幹部らが国政審議を行う会議)には有力氏族から1名のみ参加できるという原則が残っていた
・地方豪族は中央の貴族の地位から実質的に排除された
このようなことを考えると、官僚的な政治の仕組みは完成したが、古来からの氏族を単位とする政治の原則は一部残っていたということができますね。
藤原氏による官僚政治の推進
さて、官僚制原理が氏族制原理よりも強まっていく中で、それが顕著に現れる形となったのが、藤原不比等政権以降です。
717年、当時右大臣であった藤原不比等は、太政官の筆頭として実質的に政治を主導していましたが、次男の房前を参議に就任させたのです。その後、729年に、大納言の武智麻呂、参議の房前に加え、宇合と麻呂も参議となり、9人のうち4人を藤原氏で占めました。そう、上に記した氏族制原理、すなわち、公卿会議には有力氏族から1名のみ参加できるという原則が打ち破られたのです。
ここで注意しなければならない点は、藤原不比等・四子は、ただただ専横を極めたかったということではなく、実際、官僚としての能力が高かったということがあります。これ以降、実際、藤原氏は多数の公卿を輩出し、日本の政治を大きく動かしていくことになります。官僚的な律令政治は、藤原氏によって推し進められたのです。
南家→武智麻呂
北家→房前
式家→宇合
京家→麻呂