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【講義】幕藩体制の原理を捉える①

久しぶりに講義の記事を書きます。しばらくは、江戸時代について解説していこうと思います。

今回のテーマは幕藩体制。一見単純なように見えて、意外と奥が深い幕藩体制です。

 

 

江戸時代は約270年続くわけですが、この時代は、当時の社会を貫く原理を予めしっかりと押さえておくことで、深い学習ができると思います。原理的な部分をしっかりと押さえた上で、個別のことがらを学んでいくことで、「あー。なるほど」と思える。そういった演繹的な学習ですね。

あるいは、江戸時代を一通り学習した上で、「当時の社会を貫く原理ってなんだろう?」ということを考えるような帰納的な学習も効果的だと思います。

いずれにしても、江戸時代は特に、当時の社会を動かす原理・原則をしっかりと抑えることで、理解が一層深まります

 

そこで、今回は江戸時代の最も基本的な原理である幕藩体制についての解説です。

幕藩体制とは、幕府(将軍)と藩(大名)による全国支配のしくみのことを言います。

 

武家政権ですから、最も基本的な原理としては、将軍と大名の主従関係(=主従制の原理)が働きます。主従制に関しては、次の記事で紹介をしますので、そちらを参考にしてください。

 

その前に、幕府と藩についてそれぞれ確認していきましょう。

 

 

江戸幕府

幕府には以下のものがありました。

全国の土地支配権

400万石の直轄地(=幕領天領などといいます)(17世紀)

300万石の旗本知行地

・直参(=旗本御家人) ※将軍直属の家臣のこと

強い統制力

です。全国の石高は約2800万石ですから、約1/4を幕府が有していたことになります。さらには、直参とよばれる将軍直属の家臣団がいました。したがって、将軍というのは、全国の最高統治者という側面に加えて、天領と直参を支配する一大名という性格を持ち合わせていたのです。さて、5つ目に示した強い統制力については、具体的な事例を紹介します。

一国一城令

これは、大名に対して、居城以外の城の破却を命じたものになります。

目的は、

諸大名の軍事力を削ぐ

有力家臣による城郭の所持を否定し、大名の有力家臣に対する優位性を保障

の2点です。1つ目について知っている人は多いと思いますが、もう1つ目的があるのです。

大名に仕える家臣の中でも有力な者は、城主として居城と知行地を持つため、一定の力を持つことになります。一国一城令では、それを否定するわけですから、大名の有力家臣は居城や知行地がなくなり、家臣団の城下集住が促進されます。したがって、大名の家臣団統制が強化されることになるのです。

 

武家諸法度

武家諸法度でも厳しい統制がなされます。 

 ・武芸の鍛錬の強調

 ・居城の修築の許可制

 ・新規の築城の禁止

 ・幕府の許可なしに大名同士が盟約や婚姻を行うことの禁止

などです。

 

軍役人数割

軍役人数割とは、石高に応じて負担すべき軍役の人員構成を詳細に規定ものになります。これが定められることにより、大名の軍事力は幕府によって掌握され、幕府のために動員されるものであることが明らかになったのです。

 

大名の自立性の保障

一方で、幕府は大名の自立性・独自性を保持する側面もありました。領内統治に手落ちがあると、直ちに改易などの処分があるなど、幕府が大名に対して強い統制をした側面は強調されがちです。これは、全国の土地・人民の支配権が将軍に帰属するものであるためです。しかし、あくまでも幕府支配の原則に反しない限り干渉を加えることはほとんどありませんでした

 

 

大名

さて、次に大名です。大名とは、幕府からそれぞれ独自の領地をあてがわれた領主のことをいいます。

 

領内統治は自由な裁量が与えられていた

大名は、領内から独自の税率に基づいて年貢を徴収し、その収納権は大名やその家臣が持っていました。また、幕府の法度を遵守する限り領内統治は自由な裁量が与えられていました。ですから、独自に藩法を制定したり、独自の財政・経済政策を行ったりすることが可能でした。

 

独自の軍隊を擁していた

各藩では、常備・動員しなければならない軍隊の規模が石高に応じて定まっていました。ただし、武家諸法度寛永令において、大名独自の判断で領外へ軍事動員することが禁止されていました。

 

知行方式の変化

藩内においては、知行のあり方が、地方知行制から俸禄制へと変化していきました。

 

地方知行制とは、大名の有力家臣が知行地と居城をあたえられるしくみのことをいいます。このしくみの上では、大名の家臣のうち有力な者は、知行地を与えられて地方に居城を構え、直接農民から収奪するのに加え、独自の家臣団や軍事力を持っていました。

 

しかし、以下のような背景で、このしくみは俸禄制へと変化していきます。

一国一城令

・大河川に対する治水灌漑事業の急速な進展(=耕地面積の急増)

 

まず、一国一城令が発布されたことで、有力家臣たちは自らの知行地の経営拠点を失い、大名の城下に集住するようになります。さらに、治水灌漑事業が急速に進展したことにより、耕地面積が拡大し、農民の自立化が促進されることになりました。1660〜70年代の寛文年間で、自作農による自給自足的な農業経営(=小農経営)が全国的に一般化するようになったのです。したがって、有力家臣と農民の収奪関係が解消されたわけです。

 

こうして一般化したのが俸禄制です。大名は有力家臣に知行地を与えて農民統治を委ねるのではなく、代官を派遣して領内の農民のほとんどすべてを直接支配するようになりました。したがって、年貢は大名が一括して収納するようになり、大名はその年貢を家臣たちに俸禄米として与えたのです。

 

 

まとめ

以上のことを、整理する際、

・幕府と大名の関係

・大名とその家臣の関係

に着目すると、わかりやすいかと思います。

将軍(幕府)

 ↓

大名(藩)

 ↓

大名の家臣

 

大名の家臣は、俸禄制の確立に伴って大名への依存が強まり、大名による一元的な領内統治(藩内統治)が進められることになり、独自の経営を行っていくことになりました。ただし、全国の土地支配権があくまでも幕府(将軍)にあったことを踏まえると、大名は、将軍からその領地の支配を委ねられ、幕府の統制という枠組みの中で領内経営が行われていたといえます。大名は大名で幕府に依存していたわけですね。

 

このように、幕藩体制は、中央集権的性格と地方分権的性格を併せ持つ体制といえるのではないでしょうか。