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【講義】古代土地制度シリーズ③ 9〜10世紀の土地支配

今回は、古代土地制度シリーズの第3段、9〜10世紀の土地支配のあり方について扱っていきます。

 

墾田永年私財法の施行は、皇族・貴族や寺社による墾田の開発・集積を促すことになりました。

また、8世紀の後半には、浮浪・逃亡・偽籍といった行為が横行し、律令体制の存続が危機的状況になっていました。それに伴い、桓武朝~嵯峨朝であらゆる政治改革が行われてきました。

 

それでは、9世紀以降の土地制度や地方行政についてみていきましょう。

 

 

①富豪之輩(=有力農民)の登場

9世紀になると、班田の行われない地域が増えていきました。律令に基づく地方行政が機能しなくなる一方で、一部の農民は力をつけて大規模な土地経営を行うようになります。

彼らはなぜ力をつけることができたのでしょうか。

それは、私出挙を利用して下層の農民を支配し、開墾を進めて富を蓄えていったからです。彼らは、院宮王臣家(=天皇に結びついた皇族や貴族)とのつながりを強め、国司や郡司の徴税を拒み始める者も現れました。彼らは「富豪之輩」とよばれました。一方で、前述の通り、受領も地方の有力農民を徴税や輸送・納入に当たらせる権限を得ており、「富豪之輩」を相手に、どのように国内経営をしていくべきかを模索するようになったのです。

 

 

②直営田の成立

また、律令制度の機能低下に伴って、中央政府の財政が困難な状況になっていました。こうした中で、9世紀には、富豪な有力農民の力を利用して、直営田を設け、調や庸に当てることを試みました。例えば、823年に太宰府管内に設けられた公営田、879年に畿内に設けられた官田などがそれに当たります。なお、天皇家も各地に設置された勅旨田によって財源を確保するようになりました。

 

このような動きは、律令制の原則(=公地公民・班田収授)には反するものであり、院宮王臣家や中央諸官庁がそれぞれ墾田を持つことにつながります。したがって、醍醐天皇の頃(=延喜の治)の902年、延喜の荘園整理令を出して、直営田や院宮王臣家と富豪の私的な土地私有を禁じました

さて、9世紀の末から10世紀の初め頃にかけて、地方支配の大きな転換がなされます。

 

 

③受領制の成立

9世紀には、調・庸の未納が目立つようになり、律令に基づく財政が困難となりました。そこで、9世紀の末になると、調・庸を納入する責任と一国内を支配する権限を、国司の最上席者(=守・介・掾・目の守、場合によっては介)に与えました。この国司の最上席者のことを、受領といいます。

※新任の国司が、前任の国司から一国の財産・領地などを受け取ることから受領といいます。

受領制のシステムをまとめておきます。

国司中央政府に対する税の貢納の責任者となった。

・中央への税の貢納と在地での徴税は別物であったため、在地でどの程度税を徴収するかは受領の裁量で決められた。(私腹を肥やす受領の登場)

・最上席の国司の権力が強化されたことで、下級国司(掾・目など)国司の実務から排除された。受領は、自分で京から連れてきた郎等(=自分の子弟や下級官人)や、現地の有力者(=開発領主層)らを用いて一国内の支配を進めた。特に、国衙の役人に補任された現地の有力者らは在庁官人とよばれ、国衙における実務を担った。 

 

これらのシステムは、一気に転換されたものではなく、9世紀の末から10世紀の初め頃にかけて徐々にできあがったものです。(そこが古代の地方行政の理解を難しくしている点ですね…)

なお、受領制の発達に伴って郡司は力を弱めていき、9世紀の末から10世紀初頭にかけて郡家は消滅していきます。

 

ちなみに、914年、三善清行が「意見封事十二箇条」を提出します。これには、備中国下道郡邇摩郷の人口減少が示されており、律令体制に基づく地方行政がもはや成立していない状況であることが理解できます。これも、朝廷が中央集権的な体制を転換して、国司に一国内の統治をゆだねる方針にした背景の一つとして考えられますね。

 

 

④負名体制の確立

さて、国内支配や徴税の一切の責任者となった受領は、郡司や任用国司(=掾・目など)に頼らず、自らの手で国内支配を進めていくことになります。その動きの中で、10世紀の前半に負名体制が成立します。

9世紀の時点で富豪と呼ばれていた有力農民は、10世紀頃には田堵と呼ばれるようになります。国司は、領内の田地を「」という徴税単位に分け、田堵に「名」の耕作を請け負わせました。このようにして、「名」の耕作を請け負うことになった田堵を「負名」という言い方をします。国司は、負名を直接把握して、負名に対して徴税しました

ちなみにこの頃になると、これまでの租・庸・調や正税などを統合して、官物(=土地税)と臨時雑役(=特産物や手工業製品、労役)という税目になっています。

 

 

 

今回は9世紀から10世紀前半までの土地支配のあり方について勉強しました。国司の権限強化と負名体制の成立に至るまでの流れをしっかりと押さえておきましょう。