【講義】守護大名の登場と守護領国制①
守護の権限が強化され、一国の支配権を確立するようになると守護大名と呼ばれるようになります。なお、このような体制を守護領国制といいます。
その特徴としては、
- 国衙機能の吸収
- 軍事警察権の強化
- 土地支配権の強化
- 国内武士との主従関係の確立
が挙げられるでしょう。
なお、室町時代の守護は、幕府の中枢として中央政務に大きく関与していました。したがって、在地の国衙や、在地で実力によって所領支配を行う国人層をどのように取り込むかが課題となったのです。
国人については以下の記事で復習をしてください。
今回は、
の2点について解説をしていきます。
国衙機能の吸収
鎌倉時代には、大田文の作成を守護が指揮していたことが多かったと考えられます。
背景には、国衙の在庁官人が御家人化し、国司が形骸化していたということがあります。室町時代になると、守護が在庁官人の被官化を進め、国衙領と在庁官人の所領を支配下に入れ、守護領を形成していくことになります。ちなみに、東国では特に早い時期からこの動きが進みました。西国は朝廷や公家、寺社権門の影響力が強く、やや遅れてこの動きが見られるようになります。
軍事警察権の強化
鎌倉時代の守護は、主に大犯三カ条(=京都大番役の催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕)ぐらいしか権限がありませんでした。鎌倉幕府は鎌倉殿と御家人の御恩と奉公の関係で成り立っており、御恩とはまさに地頭の補任のことですから、土地の実効支配は地頭が行っていたわけですね。
1232年に御成敗式目が制定されると、夜討・強盗・山賊・海賊を逮捕する権限が、1310年からは刈田狼藉(=他領の稲を掠奪する行為)の取締権が与えられることになります。1346年には、南北朝の動乱の中で、守護の権限を拡大させて治安を確保することを企図して、使節遵行権を守護に与えています。
所領紛争が起こると、幕府が裁判を行って裁定を下すわけですが、武家社会における紛争は当事者間解決を基本としていたので、幕府の裁定に従わず実力で土地支配権を確保(=自力救済)しようとする人々もいました。そこで、幕府は中立な使者2名(=両使)を現地に派遣し、現地で幕府の裁定を強制的に執行していたのです。これが使節遵行です。
使節遵行権が守護に与えられるということは、守護は、自らの領国内において、紛争に介入する権限を獲得したということですから、国内の荘園・公領への支配を強め、国人の被官化を進めていく一因となっていきます。