受験と日本史を考える

歴史的思考力を高めよう! 日本史・受験・進路・教育・学校etc...

【講義】古代土地制度シリーズ① 古代の国司と郡司

律令制度が完成すると、国司は国ごと、郡司は郡ごとに設置されるようになったというのはご存知だと思います。ただ、国司と郡司というのは、似ているようでその性格は全く異なります

 

国司と郡司をしっかりと勉強しておくと、古代の土地制度はもちろん、政治史についても深く理解できるようになります。今回は、そのことについて学んでいきましょう。

 

 

①郡司について

郡司という職は、日本の律令体制の中において特殊な職です。7世紀以降、日本は中央集権的な律令国家を目指していたため、それぞれの国の行政を管掌する国司は中央から派遣されていました。郡司は、国造として伝統的に地方支配を行なっていた地方の豪族が任命され、その地位は世襲されていました。すなわち、日本が(官僚政治を基盤とした)律令国家へと転換する際に、(氏姓制度を基盤とした)ヤマト政権的な要素を色濃く残した官職だったということになります。

郡司は、律令体制の地方官という性格と、大和政権的な地方豪族という性格の二つの性格を持ち合わせていました。

律令体制の地方官としての役割→国司の下に位置づけられ、戸籍・計帳の作成や徴税などの律令的地方支配におけるさまざまな実務を行なっていた。

・ヤマト政権的な地方豪族としての役割→国造という立場で、元からその地域の農民を支配していたという背景から、伝統的な権威に基づいて秩序維持の役割を担っていた。

  

ヤマト政権が、国造層の人々を郡司として任用のは、国造層の人々が持つ伝統的支配力をそのまま利用してしまおうという考えによるものだったのです。

日本に律令が導入される際、律は唐のものがほぼそのまま使われていますが、令は日本の実情に合わせて大幅に改変されています。郡司という官職も、「日本の実情に合わせて」ヤマト政権的な要素を利用したのです。

 

 

国司について

国司は、日本が律令体制に転換するにあたり誕生した官職です。中央の貴族が一定の任期で派遣され、地方の行政を統括しました。国司も、他の官職と同様に「守・介・掾・目」の四等官で構成されました。

国司の役割は、一国内を統括し、天皇太政官の命令を在地の人々に伝えることでした。これはつまり、国司は「天皇の名代」として政務を行うということであり、国府の中心となる国庁(ここで公的な政務や儀式を行う)は、都の大極殿や朝堂院を参考にして作られていました。国司国府というのは、律令国家を地方に浸透させ、その威厳を示すという非常に大切な役割があったということですね。

 

 

国司の権限強化と郡司の権力低下 

律令制度に基づく地方行政には、どうしても郡司という律令体制とは異質の官職が存在してしまいます。

確かに、当初は在地の豪族(=郡司)の伝統的な支配力や、貧農を救済するなどの農民らを扶養できる実力が、地方行政において必要不可欠でした。しかし、本格的な律令的地方支配を進めていくには、そこから徐々に郡司の権限や実力を弱めていかなければならなかったのです。実際、郡司は国司の下官的な側面を強めるとともに、実質的な権限が国司に奪われていくことになります。

 

その例として、

・8世紀には、すでに終身官であったはずの郡司が頻繁に交代していた。(これには、議論があり、近年では、複数の地方有力者の存在を認め(=郡司層)、彼らが持ち回りで郡司の職を務めていたという説もあります。)これにより、一定の郡司に強大な権限を与えることを許さず、国司が郡司をコントロールすることを可能とした

・郡家の正倉に納められていた租である大税や、郡司が独自に管轄していた郡稲などをまとめて、正税に一本化された。正税は国府の単独財源であった。

弘仁年間には、郡司の任免権が国司に移され、擬任郡司(=朝廷ではなく、国司が任命した郡司)を朝廷が追認する形へと変更された。

 

もともと律令国家的な官職であった国司に権限を集めることは、本格的な律令的地方支配を行うために必要不可欠であり、その過程の中で、ヤマト政権的な官職である郡司はその力を弱めていったのです。